不登校、引きこもり、高校中退…今だから話せる「当時の私が期待していたこと」【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第11回
わたしが不登校になったときも、高校を中退したときも、教会の人たちはいろいろ言ってきた。もちろん善意からであった。ただ、その人たちは不登校の人間と接したことがなかった。今にして思えば、わたしに対して「なぜ学校に行けないんだ? ただ行けば済む話だというのに?」という疑問があったと思う。メディアで観たことがあるだけの「登校拒否」当事者を目の前にして、異質な存在に対する不安もあったかもしれない。また、わたしがいつキレるかもしれないと、恐怖さえ感じる人もいただろう。そうした疑問や不安、恐怖の裏返しとして、教会の人たちは既存の信仰の言葉でもってわたしを説き伏せようとしたのだ。だが、それがわたしにはつらかったのである。わたしにとっては信仰的な正解などどうでもよかったのだ。わたしは、わたしの苦しみに耳を傾けてくれる他者を欲していただけなのである。
今日もまた、教会に悩みや苦しみを語りに来る人がいる。「どうしたらいいのでしょうか」と、具体的な対応策をわたしに尋ねてくるかもしれない。じっさい、そういう人もいるし、尋ねられれば、わたしも答えるし、分からなければ対策を考えたり、調べたりもする。ただ、わたしは実感するのである。教会に相談にくるほとんどの人は、いや、おそらく教会に来るすべての人は、「わたしの話を聞いてくれ」という強い思いに衝き動かされている。そうでなければ、そもそも教会に連絡をとってはこないだろう。いまどきインターネットで検索すれば、たいていの知識は得られるからだ。
それが分かっているからこそ、わたしは相手に対して、いかにも希望に満ちた、前向きでキラキラした言葉は話さないようにしている。仮に聖書を引用するとしても、上述したような箇所である。するとたいてい相手は驚くのだ。「ええっ、そんな後ろ向きな言葉が聖書に書いてあるんですか!?」と。そうやって驚いたあと、その人はホッとするのである。なんだ、聖典にさえこんなにもネガティヴなことが書いてあるのかと。そこで呟いている人は、自分となにも変わらないじゃないかと。
そんなわけで、今日もわたしはネガティヴきわまりないツイートたちのなかに、ヨブ記の続編を探し続けている。
文:沼田和也